
伯母が旅立った3日後、わたしの父方の祖父も静かに旅立ちました。
数えで99歳、もうすぐ百寿を迎えるはずだったおじいちゃん。
尾道の向島に住んでいたおじいちゃんは、わたしの原点かもしれません。
おじいちゃんとの思い出と、いまわたしが感じている気持ちを、ここに綴ります。
「教科書の歴史の中」を生き抜いたひと
お別れのとき、司会の方が祖父のことをこう紹介してくれました。
「戦前、戦中、戦後、平成、そして怒涛の令和を生き抜いた方です」と。
改めて聞くと、わたしが知らない世界をすべて経験してきたんだと、ぐっと胸が熱くなりました。
「すごい」の一言で簡単に済ませられないくらい、心からの尊敬と同時に、羨ましくも感じました。
たくさんの時代を味わえたなんて……。
旅好きは、きっと血筋

47都道府県すべてを訪れたおじいちゃん。
今思えば、わたしが旅好きなのはおじいちゃん譲りだったのかもしれません。
あるとき、「富士山に登れなかったのだけが心残り。足が丈夫なうちに登っておいたら良かった」と話していたおじいちゃん。
その言葉に胸を打たれ、わたしは夫と富士山に登りました。

親戚大集合
「おじいちゃんのかわりに登ってきたよ」と伝えたときの、嬉しそうな顔は忘れられません。
これからもやりたいことは後回しにせず、すぐに行動を。
おじいちゃんにそう教えられたように思います。
白牡丹と尾道水道と

おじいちゃんがいつも飲んでいた「白牡丹」の日本酒。
わたしが日本酒の美味しさを知ったのは、その「白牡丹」と瀬戸内でとれる新鮮なお魚の組み合わせに感動したのがきっかけ。
乳がんを再再発して、長期にわたる抗がん剤治療を始める前、覚悟を決めるために向島へ行きました。
お墓参りをして、おじいちゃんに会いに行きました。

その夜に撮った尾道水道の写真と、おじいちゃんの好きだった味を描いたイラストをコラージュし、昨年の北海道とニューヨークの個展に出展しました。


それは「わたしはがんばって生きていくよ」というわたしなりの宣言の作品。

「週刊NY生活」のNY生活ウーマンのコーナーで取り上げてもらった新聞を祖父に送ったらとても喜んでくれました。
唯一のおじいちゃん孝行かな。
海を越えてこの作品を持って行って披露できたこと。
わたしの誇りです。挑戦してよかった。
「みかんのおじいちゃん」
わたしはおじいちゃんのことを「みかんのおじいちゃん」と呼んでいました。みかん山でみかんをたくさん育てていたからです。
祖父の育てたみかんを近所の人におすそ分けするのはちょっとした自慢でもありました。
瀬戸内の風に吹かれて育ったおじいちゃんのみかんは、皮が柔らかくて甘くて、とてもおいしかった。
それが普通だと思っていたけれど、90歳を過ぎてみかんの栽培をやめたとき、わたしは生まれてはじめて自分でみかんを買いました。
おじいちゃんの味と全然違った。何か足りない。そして知りました。
あのみかんには、おじいちゃんの手と心がつまっていたことを。
失ってから知る有難さ。いい年してやっと気づきました。
わたしの原点


描いてみました。
おじいちゃん、ありがとう。
わたしがここにいること。呼吸をして、旅をして、描いて、生きていること。
それは、決して当たり前なんかじゃない。
何かを残そうとして生きた人たちの、たしかな命のつながりの上に、いまのわたしの一日一日があります。
旅や食を愛するこの心は、血を通して受け取った贈りものなのかもしれません。
子どものころ、夏休みや冬休みに向島で過ごした時間。
おじいちゃんと一緒に食べた甘いみかんの味、尾道水道やみかん山の風景。
そして、おじいちゃんの家にあった広告やカレンダーの裏紙に描いた、たくさんの絵。
それらの記憶は、わたしの心の奥に“感覚”として残っていて、疲れたとき、迷ったときに、自分が元の位置に戻ってくる「ホームボタン」のような存在です。
海が好きなことも、絵を描くことも――
あの時間がなければ、きっと出会えていなかった。
それは、わたしの原点です。
だからこれからも、わたしはわたしのままで、わたしの絵で、言葉で、想いをぶつけて生きていきたい。
忘れそうになる大事な気持ちを、ちゃんと抱きしめながら。
泣いても、笑っても、迷っても――
この命をちゃんと使って、今を生きていきたい。
見守っていてね、おじいちゃん。
神戸 トラベルイラストレーター えやひろみ